幟から見る、世界の旗

世界共通としてあるもの、といわれたら誰もが答えられるのが『国旗』と答えるだろう。国を象徴とするデザインと、色彩によってその国の特色を現すことで、存在を主張するためには必要なものだ。

日本でも公的機関の中に日本の国旗を掲げており、風に靡いているのをたまに見かけるが大半の人は気にしないだろう。こういう言い方をしてはいけないかもしれないが、日本人は他の国と比べて国旗に対しての思い入れは内容に見えるのは筆者の気のせいだろうか。実際、筆者は国旗の意味というものをよく知らないで学校生活を送っていたような記憶がある。

大体こういった話をするところがあってもいいのだが、なぜか日本の国旗というものはこういうものだ、的な説明を教師から説明されたというような記憶がどうしても見当たらないのである。不思議なことではあるのだが、事実なので仕方がない。

国旗についてはまた後々書くとして、まず初めに『幟(のぼり)』について書いていこう。

皆さんご存知の通り、あの細長いやつです。もっと言えばたまにお店に立てかけられているものもあり、そういったのについてはその店のシンボルがデザインされているということがある。

一番多く見かけやすいといえば、やはり和風系のお食事処が多いのではないだろうか、まぁまず一般家庭にはない代物だ。よほど好きな人でなければインテリアとして家の庭に飾るということがあるかもしれないが、家族としては羞恥プレイ甚だしい行為だ。

また人の反感を煽るようなデザインも近所の苦情の種になりかねないので、飾るのは勝手だろうが、基本的にはそういうのは飾らない方がいいだろうし、目立つ心配も基本ない。自己主張を強くアピールしたいというのであれば止めはしないが、周りからすればしらけるだけでしかないので、やらないに越したことはない。

ではそもそも幟、とは何なのかと聞かれたら答えられるのかというのだが、これは意外に誰でもわかることではないだろうか。そう、もともとは戦乱の時代に自軍と他軍が識別できるために使っていた。

起源としては初めから細長いやつではなかった。

時代は遡り、平安時代以来となる。武士達は軍用を誇示したり、敵味方が判別できるようにと、長い布の短辺に木を通して紐を釣り上げて風をなびかせる、丈の高い流れ旗を軍団の象徴として使っていたことが一番の始まりである。

そこからさらに室町時代になると武家の一族間で争いが増加するようになり、同じ流れ旗と同じ家紋を用いる敵味方の判断に混乱が生じるようになり、このために布地の長辺と一方と上辺のあわせて2つの辺を旗竿に結びつけることにより、流れ旗との識別を容易にした幟が発案され、全国の武家へと徐々に広まったといわれている。

それまでの流れ旗に置き換わっただけでなく、管理がしやすいことから戦国時代で幅広く使われるようになる。纏と呼ばれる馬印や旗差物等に幟が用いられ、日本における軍旗の一形式となった。

ところがである、戦国自体、下克上、群雄割拠の時代になると個人の働き次第で一国一城の主になれる次代が来たことで、自分の武功を象徴し、自分の価値・評価を高めることが必要になってくる。『幟旗』は戦国時代、論考行賞のために戦場での活躍を対象に認めてもらうために個人として、識別の武装を工夫するようになって登場する。小型。軽量化して旗指物と呼ばれるものの1つとして背中や腰につけていた。無風状態でもよく識別できて、また竿と『幟旗』を背負って端っても風の抵抗を受けないように逆L字状に乳布で竿に固定するというアイデアは現代で言えば特許に値する考案だったと思われている。

また、大将の陣に大型長大な『幟旗』が立てられ『陣旗』とも呼ばれている。どこから見ても同じに見えるように、数多く、威勢を示すように立てておく必要がある。これらの大きな『幟旗』は祭礼や神社・鯉幟として現在にも伝わっている。

戦国時代も終わり、平和な江戸時代以降には『幟旗』の活躍が少なくなっていく。

またこの幟旗を利用して戦場では状況が悠里なのか不利なのかという判断をしていたという。『旗色が良い』・『旗色が悪い』は戦意の昂揚や動揺を示し、戦況の動きを意味していた。『旗を巻く』とは敗軍を意味し、『旗を挙げる』・『旗を立てる』は戦う意志を示し、転じて現代では事業を起こすような表現にも使われることがある。

そして近年では企業での利用も増えてきており、広告用として商品の写真やロゴマークを染めたデザイン豊かで色彩溢れるものが町を鮮やかに彩っている。

一部の情報では、1970年代以降、安価で縫製の容易なポリエステル製生地の量産染色技術が発達したことと、幟旗洋の竿が組み立て式の竹の竿だったものが伸縮型のスチール製の竿が開発されたことなどから、利便性が増して大幅なコストダウンと量産が可能になったことが要因として考えられている、とも言われているが確証はない。

形状

近代までの軍用の幟は、綿もしくは絹の織物を用いていた。布の寸法は由来となった流れ旗に順じ、高さ1丈2尺、幅を2幅前後が標準的である。子のほか、馬印や纏に用いられる四方と呼ばれるほぼ正方形の幟や、四半と呼ばれる縦横比が3対2の比率の幟が定型化する。最もこれらはあくまで一般的なも寸法であり、家によっては由緒ある寸法を規定することや、流行に左右されるもあった。

また旗竿へのとめ方によって、乳と呼ばれる布製の筒によって竿に固定する乳付旗と、旗竿への接合部分を袋縫いにして竿に直接縫い付けることによって堅牢性を増した縫含旗に区別できる。

旗竿は千段巻と呼ばれる紐を巻いた漆塗りの樫材や竹を用い、幟の形態に応じて全体をトの字型、あるいはL字型を逆さにした形状にして布を通していた。

現代の幟

現代の幟は、主に広告用の資材として利用され、前述の乳付旗に準じた形状の幟であり、何点かの乳を使って逆L字状の竿に結わえて固定する。布の寸法比率に基準はないものの、空間を効率的に利用しつつ布面に文言を記載するために縦長の形状になる。

形状

様々なタイプのものが開発されており、ダブル幟は今までの幟旗スタイルにはない、全く新しい形状のものとなっている。旗の中心と上部に棒状をつけ上りボール、かんざしを全て隠せるようになり、高級感の演出が可能になった。

材質

かつては旗竿に竹を使用したこともあったが、昨今では金属パイプに塗料を塗布表面処理を施した既製品や、合成樹脂素材で整形した既製品を利用している。

布も対候性を主眼に合成繊維が用いられるようになり、薄い生地を用いて片面印刷になっているものが多い。

また、郡用品として戦場で兵卒が常に携行することを踏まえていた近世以前とは異なり『台座に固定して無人での管理を前提としていること』も特徴である。

問題点

一方で、道路や歩道等に設置される広告用の幟には、通行の妨害になる・景観を損ねる・歩行者や車からの見通しを妨げ、交通安全の観点から危険と言った批判も少なくない。また、台風等の強風時には、土台ごと転倒したり飛ばされる危険もある

有名な幟例

幟というと、意外と誰もがこの人のが有名として名を挙げる歴史上の偉人が二人いるだろう。『武田信玄』と『上杉謙信』の二人だ。

武田信玄の『風林火山』、上杉謙信の『毘沙門天』、この二つは度々取り上げられては話題になることもある。歴史上の推測でしかないものの、宿敵めいた因縁の会った二人だが、その中で友情めいた関係を築いていたという話もよく取り上げられている。

そんな二人の友情を少し過激に、やや大げさに表現している作品といえばゲーム『戦国BASARA』がいい例ではではないだろうかと、筆者は個人的に思う。ゲームからアニメに展開がされているが、どれもがどことなく真剣みを感じることが少なく、やや笑いを誘うような表現があるのは、製作者の意図として片付けておこう。

さて、ではなぜこの二人がそれぞれ幟のデザインを考えたのか、考察していこう。

まずは武田信玄の『風林火山』についてだ。

そもそも風林火山という言葉は『疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山』、現代の創作では『疾(と)きこと風の如く、徐(しず)かなること林の如し、侵略(しんりゃく:おかしかすめる)すること火の如く、動かざること山の如し』と訳すようなこともある。

この言葉は中国春秋時代に作られた『孫子』・軍争篇第七で、軍隊の進行について書いた部分にある文章を、部分的に引用したものとなっている。

すなわち『故其疾如風、其徐如林、侵掠如火、難知如陰、不動如山、動如雷霆。』、『故に其の疾きこと風の如く、其の徐(しず)かなること林の如く、侵掠(しんりゃく)すること火の如く、知りがたきこと陰の如く、動かざること山の如く、動くこと雷霆(らいてい)の如し』から持ってきている。

これは『~そこで、戦争というものは敵をだますことであり、利益になるように動き、分散・集合して変化していくものである。だから、移動するときは風のように速く、静止するのは林のように静かに、攻撃するのは火のように、隠れるには陰のように、防御は山のように、出現は雷のように突然出てくるようにしなければならない』という意味となる。

これらは武田信玄が快川紹喜に書かせたという軍旗に由来している。ところがこの旗がいつ作られたのか確かな記録がないためよく分かっていないが『甲陽軍鑑』には1561年から使用を始めているとかかれている。『風林火山』という名称は、現代の創作で作られたと、強く考えられている。

この軍旗は山梨市・霊峰寺、武田神社など数旗の現存が確認されており、特に霊峰寺のものが有名となっている。

旗の調査を行った戦国史研究者は以下のようにまとめている。

  • 旗指物の研究を行った高橋賢一は『風林火山』という語句は文献に全く記載なく、現代の創作だと考えている。鈴木も井上靖の時代小説『風林火山』が最初ではないかと考えている。
  • 古くは孫子の旗もしくは孫子四如の旗としか書かれていない。江戸時代の記録にも武田信玄の軍旗としか記載がない。
  • 旗の形状にも諸説があり実際にどんなものであったか江戸時代の軍学者の間でも問題になっていた。
  • なぜ孫子からこの部分が引用されたのかも分からない。孫子の原文の一部が切り取られている理由も不明。

またとある軍学者は『当時の戦国武将の間では、兵法書といえば越前朝倉氏などが講義を受けていた六韜・三略は知られていなかった。そこで信玄は、自分達は孫子を知っているということを誇示し、敵を恐れさせるために孫子の旗を作った』と述べているが、これも憶測でしかない。

ネオ、ネット上では大阪阿倍野神社蔵の伝・北畠顕家の旗に『疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山』という文言があるという説があり、信玄は北畠顕家の旗を元に『孫子の旗』を作ったという説が行われているが『甲陽軍鑑』などや江戸時代の軍学者の説にもない説であり、信憑性は不明確となっている。

また、信玄が信仰する諏訪明神の加護を信じて『南無諏方南宮法性上下大明神(なむすわなんぐうほっしょうかみしもだいみょうじん)』を本陣旗としている。

では次に上杉謙信の『毘沙門天』について書いていこう。

そもそも毘沙門天とは何ぞや、というところから説明していこう。

仏教における天部の仏神で、自国天・増長天・広目天とともに四天王の一尊に数えられる武神として崇められている。また四天王としてだけでなく、中央アジア・中国など日本以外の広い地域でも独尊として信仰の対象となっており、様々な呼び方がある。

この毘沙門天はインド神話の財宝神『クベーラ』を前身としており、毘沙門という表記については『ヴァイシュラヴァナ』を中国で音写したものとなっている。』

ヴァイシュラヴァナという称号は本来『ヴィシュラヴァス、神の息子』という意味で、彼の父親に由来するが『よく聞くところの者』という意味にも解釈できるため、多聞天とも訳されることがある。日本では四天王の一尊として造像安置する場合は『多聞天』、独尊像として造像安置する場合は『毘沙門天』と呼ぶのが通例となっている。

三昧耶形は宝棒・宝塔であり、種子は『vai(ベイ)』となっている。毘沙門天に捧げられた真言としては『オンベイシラマンタヤソワカ』などがある。

その姿には様々な表現があるが、日本では一般に皮製の甲冑を身に着けた唐代の武将風の姿で表される。持ち物は宝塔が一般的で、また邪鬼と呼ばれる鬼形の者の上に乗ることが多い。

インドにおいては財宝神とされ、戦闘的なイメージは日本と違ってほとんどなかった。中央アジアを経て中国に伝わる過程で武神としての信仰が生まれ、四天王の一尊たる武神・守護神とされるようになる。そして帝釈天の配下として、仏の住む世界に支える須弥山の北方、水精タ天敬城に住み、あるいは古代インドの世界観で地球上にあるとされた4つの大陸の内北倶盧洲(ほっくるしゅう)を守護しているとされている。また、夜叉や羅刹といった鬼神を配下としている。

密教においては十二天の一尊で、北方を守護するとされている。日本独自の信仰として七福神の一尊とされ、勝負事に利益があるとして信奉されていることが多い。

上杉謙信はそんな『軍神』として崇められている毘沙門天の熱心な振興課として名高く、本陣の旗印にも『毘』の文字を使っていた。

毘沙門天に姿にははっきりとした規定はないため、様々な表現がある。先ほど書いた日本では武将風の姿で表され、宝塔の持つ姿が一般的であるが、ほかに三叉戟を持つ造形例もあり、例えば京都・三室戸寺像などは宝塔を持たず片手を腰に当て片手に三叉戟を持つ姿で表現されている。

また、中国の民間信仰においては、緑色の顔で右手に傘、左手に銀のネズミを持った姿で表されている。チベット仏教では金銀宝石を吐くマングースを持つ姿で表され、インドでの財宝神としての性格を残している。

独尊、または中心尊としても多くの造形例がある。安置形態としては、毘沙門天を柱損とし、吉祥天と善膩師童子を脇侍とする三尊形式の像、毘沙門天と吉祥天を一対で安置するもの、毘沙門天と不動明王を一対として安置するものなどがある。

また、天台宗系の寺院では、千手観音を中尊として両脇に毘沙門天・不動明王を安置していることが多く、真言宗系寺院でもこの傾向がある。

四天王の一体として北方を守る多聞天像の作例も数多くその姿は独尊の毘沙門天像と特に変わるところはないが、左右いずれかの手に宝刀を捧げ持つ像が多い。

という理由から、それぞれが幟のデザインとして利用していたと考えられている。

歴史上の流れから見てみると、武田信玄のはその当時そのままの単語が使われていたのかというところが曖昧なのに対して、上杉謙信は実際に信奉者として知られており、その勇ましさに自分を移しながら字を拝借して幟に利用しているという、二つを見比べてみるとこうもはっきりとした史実的見解で異なっているところが面白い。

ただ願わくば、その二つがその当時から真実であったと願いたいところが本音ではないだろうか。